熱海秘宝館

熱海砦と秘宝御殿

表には語られぬ歴史がある。

そもそも、歴史とはどのようにつむがれるのか。
伝えるのだ。幾百年という時を越えて。

出来事を、人物を、風習を、情勢を、流行を。
書が伝え、絵が伝え、歌が伝え、人が伝える。

それらが現代まで伝承され、今も我々の知る歴史と成るのだ。
しかし、全てが紡がれるわけではない。

権力者に不都合であったため、世界から存在を消された歴史。
長い年月の途中で伝承が絶え、誰にも知られず失われた歴史。
関わった人間が口裏を合わせ、闇の中へと葬り去られた歴史。

理由は様々に考えられるだろう。
ただ、もっと個人的な事情で無かったことにされたかもしれない。

そう、例えば……。
人には言えないほどとか――

全ての始まりは一枚の古絵図だった。

熱海秘宝館の電影技師・上島は、当時の様子をこのように振り返る。

「あれは、今から四十年くらい昔だったか。時代は昭和も真っ盛り。どこもかしこも好景気。熱海に新しい観光名所を作ろうってんで、秘宝館を建てることになった。それからは連日の土木工事。俺も監督のために、現場へ通ったもんだ」

――そこで何があったのですか?

「ある日な。穴を掘ってた工事の兄ちゃんが、俺に言ったんだよ。『上島さーん! 何か変なの出たよ!』って。おおかた、ヘビでも出たのかと思ったさ。ところがどっこい。兄ちゃんが地面から発掘したのは、古い木箱だった」

――箱の中身は?

「ひょっとして徳川の埋蔵金か? 小判でも入ってんのか? 期待して開けたが、大ハズレ。中身は古ぼけた紙の断片さ。ボロボロで絵も文字も読めやしない。ただ、どうにも捨てられなくて、そのまま倉庫にしまっておいた」

――それを数年前に発見したと?

「ああ。最近の科学ってのはスゴイな。俺にはよくわからんが、あの紙切れを復元しちまったんだ。そいつが、これ。今度、熱海秘宝館に展示する予定の古絵図。なんと、この資料から熱海の隠された歴史が明らかになった! いったい何だと思う?」

――ゴクリ。

「実はここだけの話。秘宝館は江戸時代にも存在したらしい」

――そんな、まさか……。

時は慶長けいちょう十二年。

かの徳川家康は征夷大将軍せいいたいしょうぐんとなり、江戸幕府を開いてから四年後のこと。

彼は隠居した。

将軍職を三男の秀忠ひでただへ譲った家康は、江戸城を離れ、駿河国するがのくに駿府城すんぷじょうへと住まいを移したのである。より正確に言えば、将軍の座を降りたのは二年前の慶長十年。

すなわち、激戦となった関ヶ原の戦いを経て、やっと思いで征夷大将軍まで登り詰めたというのに――わずか二年で引退してしまったのだ。実に不可解ではなかろうか。

駿府城へ引っ込んだ後も、陰から政治の主導権を握り続けたとも噂されている。だが、ここで謎がもう一つ。家康は関ヶ原の戦いに勝利したものの、依然として豊臣家は存続していた。

再興を目論もくろむ豊臣家は、徳川家にとっても明らかに脅威である。しかし、その問題を解決する前に、家康は隠居してしまった。将軍という大役を息子に託した。これは何か引っ掛かる。

まるで、どうしても駿府城へ引っ越したかったかのような……。

そこには並々ならぬ事情があった。

所変わって伊豆国いずのくに

天正てんしょう十八年に家康の領地となり、現在は幕府の直轄地として治められている。古くから温泉と漁港で有名なこの地は、しくも駿河国の隣にあった。

さて、伊豆国の北東。相模湾さがみわんを望む海岸沿いに位置する町こそ、由緒正しき温泉地「熱海」である。その名の通り、海から熱い温泉が湧いたことから名付けられた。

場所は熱海にて。とある新月の夜。

星明かりに照らされて、二つの人影がぶらり。

一人は編笠あみがさを深く被り、もう一人は黒衣で全身を固めている。

電灯もない江戸時代、移動は昼間と相場が決まっている。どうして提灯ちょうちん一つで、危険な夜道を歩くのか。誰かに見られたら困るのだろうか。

無論、困るのだ。とてもとても。

しばらくすると、謎の二人組は大きな門の前へ辿り着いた。されど、入り口は固く閉ざされている。門番の姿も見当たらない。

「お顔を拝見させていただきます」

突然。暗闇に透き通った女性の声が響き渡った。言われるがままに、一人が編笠を頭から取り去る。現れたのは、熟年の男。
全盛期を過ぎてなお、鋭い視線と引き締まった顔。

――江戸幕府『大御所おおごしょ』徳川家康

将軍である。

否、引退した将軍、もとい大御所である。問題はそこではない。何故、こんな時間に、こんな場所へ。お供はたった一人のみ。怪しい事この上なし。

「はい。確かに家康様ですね。お待ちしておりました。では、開門!」

――ゴゴゴゴゴ……

門の覗き穴から、家康の顔を確認したのだろう。ゆっくりと大門が開け放たれる。中から出迎えたのは声の主。

極彩色ごくさいしきの着物をまとった若い女性だった。

年齢は二十代前半。白い肌、通った鼻筋、目尻と唇には紅化粧。つやのある黒髪は、ツツジの花をかたどったかんざしで結わいてある。控えめに言っても、絶世の美女。

加えて、妖艶ようえんな身なりと体つき。おい待て、着物なのに体型がわかるのか。確かに着物であるが、首回りと胸元が広く開いているのだ。

少し気を抜いたら、肩からするりと衣服がずり落ちでしまいそうなほどに。初対面の男は、思わずドキッとしてしまうだろう。

「大変ご無沙汰しております。今宵もまた、女将のアヤメが案内人を務めさせていただきます。すでに宴の用意も万全にて。では、ごゆるりとお楽しみくださいませ。徳川様御一行、ご案内です!」
「はいっ! 喜んでっ!」

門を潜ると、そこは明るく華々しい世界。左右に立ち並ぶは、きらびやかな衣装で踊る女子おなごたち。その合間を縫って、女将を先頭に家康とお供が従い歩く。

直後、アヤメはくるりと後ろを見返り、ニコリと微笑んだ。

「ようこそ、秘宝御殿へ。骨抜きになるご準備はよろしいですね?」

「皆の者! 準備は良いな!」
「おおーっ!」

同時刻。野太い声が辺りに響き渡った。

熱海の海岸より遠く離れた、相模湾の沖にて。二十を超える舟が、闇に紛れて集結していた。そのうちの一艘いっそう舳先へさきに堂々と立っているのは、見るからに屈強な男。腰にげている二本の刀から、彼の身分が武士だとわかる。

続けざまに、男は舟の人々へ語り始める。

「かの関ヶ原にて敗北を喫してから早七年。我ら豊臣家は、長く辛い日々を過ごしてきたが――それも今日で終わりだ」

男は一呼吸分の間を置くと、勢いよく話し出した。

「発端は一つの噂話だった。家康が駿府城へ移ってからというもの、新月の夜になると人目を忍んで城を抜け出すらしい。そして遂に、我々は奴の潜伏先を突き止めた。あれを見よ!」

舟から陸を眺めれば、宵闇に浮かび上がる一つの大きな影。

「砦だ。地元の人間は『熱海砦』と呼んでいるそうだが、見たところ巨大な城郭さながら。あの中に家康がいる。天に仇なす逆賊を、亡き秀吉ひでよし様と三成みつなり様に代わって討つのだ! 豊臣家の再興のために!」
「豊臣家、万歳!」

誰もが舟から立ち上がり、拳を掲げて叫ぶ。

「意気込みは十分だな。家康の首を獲った者には、相応の褒美を与えると、この大将・伐折羅ばさらが約束しよう」

密かに集められた大勢の豊臣軍。彼らを指揮するのが、伐折羅大将である。そのかたわらで、険しい表情のまま仁王立ちするは、迷企羅めきら副将。

大将は刀を抜き、その場の全員に言い放つ。

「海岸へ近付いたら、隠密行動となる。故に、これが最後の号令だ。ここに集いしは三百の軍勢! その誰もが関ヶ原を乗り越えし精鋭! いざ行かん! 敵は熱海砦にあり!」
「うおおおおおおーっ!」

天地を震わす大咆哮。同時に、舟は陸を目指して静かに進み出した。

大将が舟の舳先から降りると、また別の人物が彼に声を掛ける。

「お勤めご苦労様です、伐折羅」
「これは、首領。もったいなきお言葉」
「しっかりと大将の務めを果たしなさい。素晴らしい働きを期待していますよ」
「はっ、必ずや」

首領と呼ばれた人物は、布で顔を覆い隠していた。察するに、この者が黒幕に違いない。

すると、首領はぼそりと小さく呟いた。

「あの古狸ふるだぬきめ……どうして熱海なのか……」

家康がこっそり熱海に通っている理由は、最後まで判明しなかった。おそらく、名湯「熱海温泉」へ湯治とうじに訪れているのだろう。戦の古傷を癒していると、世間に知られたくないのか。徹底して弱みを見せぬ狡猾さ。隠居しても健在なり。

「ふふっ……待っていなさい。あの人と同じ場所へ、逝かせてあげましょう」

家康の喉元まで魔の手が忍び寄るも、当の本人は全く気付いていなかった。

「はっはっは、苦しゅうない! もっと近う寄れ! 嗚呼ああ、実に愉快である!」

美女に囲まれ、豪勢な食事を堪能し、心から余興を楽しむ。一方、黒衣の付き人は宴に参加せず、大広間の隅で正座するのみ。

その時、女将が家康の耳元で囁いた。

「家康様。お戯れも程々に。羽目を外し過ぎぬようお願い致します。贅を凝らした宴は、単なる前座にてございますから」
「なに、わかっておる。お楽しみはまだまだこれからよ」 「

「酔い潰れてしまっては本末転倒ですからね。では、次なる催し物と参りましょう。窓際までお越しください」

すうっと障子の窓が開かれる。天には星空、眼下に広がるは暗い海。

「よもや、この熱海の絶景が余興だと言うまいな」
「もちろんです。それと同じくらい美しいものを、今宵は披露します。家康様も見るのは初めてになるでしょう。異国の地より手に入れた不思議な品々の一つです。では、着火!」

豊臣軍は音もなく上陸していた。伐折羅大将を筆頭に、三百の武士が砦の手前に並び、態勢を整えている最中である。準備を終えれば、今にも攻め込まんとする勢い。誰もが奮い立っている。

どれだけ堅牢な砦でも、誰か一人が壁をよじ登り、こっそり中へ侵入できれば――機能しないのだ。内側から門を開けた時点で、砦は無力化される。

熱海砦、恐るるに足らず。そのはずだった。

「よし。まずは侵入する先遣部隊を……」

大将が口を開いた時、事件は起きた。

――ヒュルルルル……パァーン!

突然の轟音! 夜空に光がほとばしる!

何が起きた、敵の攻撃か、それにしては綺麗だ。豊臣軍は口々に喚く

その正体とは、西洋より取り寄せた筒花火を、砦の内側で打ち上げたのだが……無論、彼らがそんなことを知るよしもない。

一瞬にして豊臣軍は大混乱。次々と放たれる花火に驚くばかり。

一方、大将の見立てによれば攻撃ではない。威嚇か索敵か、救援を呼ぶ信号か。どちらにせよ、発見されたことは確定事項。奇襲は失敗である。

「くっ……止むを得ん。皆の者、突撃だ!」
「うおおおぉーっ!」

大将の勘違いによって、熱海砦の戦いが幕を開けた!

いと珍しき夜空を彩る満開の花。初めて見る西洋花火に喜ぶ家康であったが、瞬時に異変を察した。数々の戦を乗り越えし男、伊達だてではない。

「敵襲だ!」

彼の一言に、場が騒然とする。耳を澄ませば、砦の外から男たちの雄叫び。そこからの女将の行動は早かった。

「総員、配置に付きなさい。すぐに迎撃の準備を。家康様をお守りするのです。秘宝御殿へ足の一歩たりとも踏み入れさせてはなりません」
「はいっ! 承知っ!」

想定済みである。表向きは良好な関係を装っていようと、裏では豊臣家が家康の命を狙っている可能性は拭えない。ならば、有事のことを考えているのも当然だろう。

一瞬にして、広間にいた女子が散開した。これには家康も驚く。

「さすが、女将。頼りになるな」
「はい。いざという時のために、備えて参りました。ただ、唯一の問題は……秘宝御殿には女子しかおりません」
「なんてこった! 敵は恐らく武士であるぞ! 女子供では相手になるまい!」

慌てる家康とは対照的に、女将は極めて落ち着いた口調で答える。

「でしょうね。時間を稼いでいる間に、逃げる算段を整えましょう。ご心配なく。私たちには、私たちの戦い方があります。そして、ここは熱海砦。愚かにも砦攻めに挑むとは良い度胸です。攻め入ったことを後悔させてあげましょう。豊臣家御一行、ご案内です!」

「登れ! たかが砦、突破できぬ道理はない!」

大将の鼓舞に、豊臣軍は沸き上がる。梯子はしごを掛け、鉤縄かぎなわを投げ、各々が内部への侵入を試みる。たった一人でも中に入れば、熱海砦は崩れたも同然。

――ピシュッ!

「がっ!?」「何か飛んできたぞ!」「銃か、弓か!?」

そのどちらでもなく、どちらでもある。

一介の女子に、火縄銃など扱えぬ。かといって、弓矢も飛ばすには技術が必要。そこで熱海砦の守りに用いられたのは、これまた西洋の武器。

名を――洋弓銃ボウガン

扱いは極めて容易。矢を装着し、敵を狙って、撃ち放つのみ。驚異的なのは、次の矢を放つまでに要する時間の短さ。文字通り、矢継ぎ早。一発を打つのに数十秒も掛かる火縄銃より早い早い。

先遣部隊は素早く砦を登るために、鎧兜を脱ぎ捨てたことが仇となった。闇の中を降り注ぐ矢の雨に、豊臣軍はたじたじ。もっとも、砦を守る人員は三十にも満たないのであるが。

「ええい、怯むな! 進め! 進めーっ!」

豊臣軍も負けてはいない。身体に矢が刺さろうとも、仲間のかばねを踏み越える。また、多勢に無勢であった。さすがに三百もいれば、一人くらいは到達してしまう。

遂には砦を登りきり、内部へと侵入。石落としの洗礼をかわし、壁の穴から繰り出される槍をいなし、命を賭して大門のかんぬきを――外した!

「武士の、意地を……舐めるな!」

勇敢なる一人の手で、砦の門が開け放たれた。ここぞとばかりに軍勢がなだれ込む。いざ、家康の首を獲らん。

「今です!」

――バシャアアアアアァ!

刹那、彼らの耳に届くは水の音。

熱海名物、温泉である。適温に冷ます前の熱湯が、これでもかと大量に流れてきた!

「そ、そんな……」「撤退! 一時撤退だ!」「ギャアアアアアアァ!?」

あっという間に呑み込まれた。そのまま砦の外へと流される。火傷を負った者は、これにて脱落。その惨状を目の当たりにして、大将は吠える。

「いったい、この砦は何なんだ……! からくり屋敷か!?」

「家康様、参りましょう。まずは下の階へ降ります」
「うむ。おい、行くぞ」

家康は付き人に声を掛ける。ところが、黒衣の男は首を振った。

「否、今こそお役目を果たす時。未だに攻め込んだ敵の規模は知れませぬ。故に、拙僧を置いてお逃げくだされ。命の限り、時間を稼ぐ所存なり」
「……お主ならば、そう言うと思ったわい。止めはせん。だが、生きてまた会おうぞ!」
「心得ました。では、女将殿。例のアレを使わせていただこう」

熱海砦に苦戦しながらも、豊臣家御一行は秘宝御殿まで辿り着いた。どうにか砦を攻略したのだ。やはり、数に勝りし強さはない。

しかし――その数、五十にも満たぬ。

三百もいた軍勢が、得体も知れぬ砦の前に次々と脱落。こんなことがあり得るか。大将もいきどおりを隠せない。

「……いいか。奴の首は近い。ここまで来れば、我々の独壇場。接近戦で武士に敵う相手などおらん。これより二手に分かれる。半分は迷企羅に従え」
「はっ!」

果たして、家康は御殿のどこにいるか。砦の周りを豊臣軍が取り囲んだ時点で、逃げ道は残されていないはず。

すると、救援が辿り着くまで部屋に立て籠もるか、どこかへ息を潜めているか、二つに一つだろう。

「いたぞ、上だっ!」

豊臣軍の一人が、早くも家康を発見した。副将を先頭に、階段を駆け上がる。

大将もそれに続こうと――

「お待ちなさい。家康は自ら死地に飛び込むような人間ではありません。つまり、罠かもしれない。伐折羅は一階を捜索なさい」
「仰せの通りに」

首領の一声で、大将の顔に緊張が走る。

「残りの半分は拙者に付いてこい。有象無象には構うな。狙うは家康の首一つ!」

二階へと突撃した一団は、家康を追い掛ける。予想外にも、一切の罠は仕掛けられていなかった。これは好都合。

勢いづいて、とある部屋へと踏み入り――彼らは目を疑った!

「なっ……なんだ、この部屋は……!?」

壁に飾られし大量の春画。男女がくんずほずれする四十八手の絵巻。珍妙な形の木馬がデンと鎮座し、隣にはむち蝋燭ろうそく
加えて、いかにも表現し難い形状の置物や品々。どう見ても、あれを模しているとしか思えない。これ以上はご想像にお任せする。

男たちは瞬時に全てを察した。

どうして家康は早々に将軍を明け渡し、駿府へ隠居したのか。新月の夜にお忍びで熱海へ通っていたのか。誰にも言えるわけがないのだ。

将軍の権力を行使して、こんな歓楽施設をひっそりと建てていたなんて……。

実のところ、伊豆国が家康の領地となった天正十八年より、秘密裏に計画は始動していた。征夷大将軍となる前から。そうして長い月日を経て、完成したのが――

さすがの家康も、こっそり江戸城を抜け出して遊びには行けぬ。

だから、すぐにでも隠居する必要があったのだ。

「見付けたぞ! 間違いなく家康だ!」

思わずあっけに取られたが、豊臣軍は部屋に隠れていた家康を発見して我に返る。すぐさま武士の一人が、その首を目掛けて刀を振り下ろす。

「覚悟っ!えいっ!」

――ゴロン

足下に転がる家康の首。

「……獲った! 家康、討ち取ったりーっ!」

男は絶叫する。これで豊臣家の再興も約束された未来だろう。

が、直後。その場の全員が違和感に襲われた。

「待て、おかしい。血が噴き出ないぞ……違う!これは家康の姿を精巧に真似た蝋人形だ!」

まさかの偽物だった。ならば、本物はどこへ……?

その時、部屋の奥の通路で人の気配がした。豊臣軍は再び追い掛け始める。次に辿り着いたのは、またしても奇妙な一室。壁の全てが鏡面に覆われた、鏡の間。

ここで謎の人物を遂に追い詰めた。

「ふん。やはり豊臣家の手先か」

黒衣の男は呟き、バッと頭巾を取り払う。その顔が露わになると、豊臣軍はどよめいた。

「き、貴様は――!」

――家康の懐刀『黒衣の宰相さいしょう金地院こんちいん崇伝すうでん

家康の側近として高名な僧侶である。頭脳と外交に長け、異例の若さで住職へ昇進した、僧侶界のエリート。知らない武士はいない。

「やっと罠だと気付いたか。だが、もう遅い。お主らはすでに術中にまった。ここは拙僧の領域なり。見る者を惑わし鏡の迷宮から、一人とて逃げられると思うな!」

「がはッ!」「ぶべっ!?」「ひぎィ!」

瞬く間に三人を打ちのめした。身の丈ほどもある錫杖しゃくじょうを自在に操っている。並みの武士では歯が立たぬ。すると、次に相手となるのは……。

「ほう。坊主にしては出来るようだな。黒衣の宰相とやら。では、我と手合せ願おうか。お前たちは下がっていろ」
「迷企羅副将!」

両者は対峙した。お互いの実力を推し量り、勝負は一瞬で決まると悟った。

先に動いたのは副将。稲妻のごとく、崇伝に斬り掛かった! 否、これは「突き」である。なんという瞬発力。いかなる猛者もさでも、この距離からは避けられない――

――バリイイイイィン!

割れた。穿うがった相手は、まさかの鏡。いつの間に入れ替わったのか。

「よもや!?」
「ふん。まだまだ修練が足りぬようだな。もっと心の目で見るが良い!」
「がっ……ふ……」

ドサリ。急所への一撃で、副将は昏睡した。

その光景を目の当たりにして、残りの武士たちは本能的に理解した。これは敵わない。反射的に逃げようとするが――鏡の迷宮では帰り道がわからぬ。

「豊臣家よ、覚悟できておるな。さあ、説法の時間だ」
「くっ、来るな……来るなーっ!」

鏡に衝突し、無闇に剣を振り回し、味方で同士討ち。その間にも、一人ずつ確実に討たれていく。たった一人の僧侶に、二十の軍団があえなく全滅。

「僧が弱いと誰が決めた。嗚呼、戦乱の世は無情なり」

崇伝の計略にまんまと引っ掛かったのは、秘宝御殿へ到達した豊臣軍の半数。伐折羅大将率いる残りの二十余人は、着実に家康の元へ迫っていた。槍や薙刀なぎなたで行く手を阻む女戦士たちと乱戦を繰り広げながら、着実に進んでいく。

この時点で、家康と女将は御殿の最奥に到達していた。

「はっ、はあっ……。こんなに……走るのは、久々だ……」
「家康様。どうやら状況は宜しくありません。伝令によれば、二十の武士が迷わず向かってきているとのことです」

アヤメの言葉を聞いて、家康は大きく目を見開く。

「そんな……崇伝が簡単にやられるとは思えぬ……」
「はい。おそらく、計略を看破されたのでしょう。敵にも切れ者がいるようです。
こちらの窓から外へ出て、速やかにお逃げください」

お逃げください。その一言で、家康は気付いた。

逃げましょう、ではない。それが意味することは――

「女将はどうするのだ」
「私はここに残って、敵を封じ込めます。父上も存命ならば、同じことをしたでしょう」
「……全て覚悟の上か。あい分かった。達者でな!」

家康が重い体を必死に動かし、窓から脱出すると同時に。

入れ替わるように大将の一団が到着した。

「ここが建物の最奥か。む、露天風呂だと?」

御殿の内部に温泉があることは、最初からわかっていた。熱湯が攻撃に使われた時点で。

されど、ただの露天風呂にあらず。この場でもまた、男たちは察した。凹型の椅子や、床に並んだ四角い敷物、桶に満たされたドロドロの液体を目の当たりにして。つまり、ここはそういう施設だったのか。道理で堅牢に守られているわけだ。

彼らの前に立ちはだかったのは、女将のアヤメだった。大将は叫び、問い掛ける。

「おい、その窓だな。そこから家康は逃げたな?」

彼は名ばかりの大将ではない。冷静に戦況を見極める有能な武士。だからこそ、家康の元まで最短距離で到達できた。

対する女将は、答えない。それどころか、呑気なことを言い出す始末。

「あら、豊臣家御一行のご到着ですね。ようこそ、熱海の秘宝御殿へ。皆様、骨抜きになるご準備はよろしいかしら?」
「しらばっくれる気か。ならば、無理にでも吐かせてやろう。皆の者、奴を捕らえよ!」
「うおおおおおっ!」

――パサッ

正直に言うと、予想はしていた。

相手が何を武器に使ってくるか。男たちは妄想していた。そんなことにならないかと。心のどこかで。下心を持って。それが今、現実となった。

「なっ――!?」

目の前に立っていた美女が、自ら着物をはだけた!

一糸まとわぬその身体。生まれたままの姿を露わに。少し恥じらいの表情を見せ。

出るところの出た、柔らかく なまめかしい肉体。極上と表現してさしつかえない。

誰もが一瞬で固まった。それが罠だと、頭では理解していようとも、男ならば見ざるを得ない。完全に目を奪われた。
あの大将でさえも!

「魅入りましたね」

辺りに漂ってきたのは、火薬のにおい。
まさか、鉄砲か――

夢幻むげん・まやかしの術!」

――カッ!

まばゆい閃光が露天風呂を包んだ。

特製の火薬を調合し、一つの玉に圧縮して作った閃光弾。全ての男が勢揃いし、視線を奪ったその瞬間。女将は隠し持っていたそれを点火したのだ。

「ぐあああああッ! 目がァ――!」

視覚さえ奪えば、いかに屈強な男も敵ではない。はて、こんな芸当が一介の女将に可能なのか。無論、只者ただものではない。

――二代目服部半蔵の隠し子『くノ一』服部はっとり菖蒲あやめ

しのびの一族である。彼女の父は忍であり、徳川家康の忠臣として仕えた。彼には娘がいたが、世間には存在をひた隠し、立派なくノ一として育て上げていたのだ。

その後、秘宝御殿の女将・アヤメとなった。このような日が来るかもしれぬと、父から家康を託されて。

「皆様、いかがでしょう。一時の愉悦ゆえつを楽しんでいただけましたか?では、ご満足されたところで、招かれざるお客様にはご退出を願いましょうか」

大将すらも無力化された。これにて、豊臣軍は全滅――かに見えた。

アヤメがほっと胸を撫で下ろした刹那。隙を狙って、窓から外へ出ていく影が一つ。

豊臣軍の首領がまだ残っていた!

「ご機嫌よう。お嬢さん」
「なっ、待ちなさい!」

ほぼ全裸のアヤメはとっさに追い掛けようとするも、洋弓銃ボウガンの反撃を食らってしまう。女戦士から奪ったのか。とてもじゃないが、丸腰、丸裸では追い掛けられない。それに、視力が回復する前に、男たちを始末する必要もある。

どう戦況を判断しても、追跡は諦めざるを得なかった。

「父上。どうか家康様をお守りください」

「ふふっ……随分と待ち焦がれました。ですが、遂にこの時が来ましたね。この手で奴を葬り去ることができるとは。あの人も本望でしょう」

顔に覆いし布を取り払った首領。その姿は――

――豊臣秀吉の正室『高台院こうだいいん北政所きたまんどころねね

まさかの女性であった。アヤメの色仕掛けが効かなかったのも、納得できよう。

復讐の動機は十分である。秀吉の死後、家康は豊臣家を裏切り、関ヶ原の戦いにて豊臣軍を降したのだから。それでいて、のうのうと征夷大将軍となり、秀吉の後釜に収まった。

本来ならば、将軍の座を継ぐのは三男の秀頼ひでよりだったのに。

したがって、今宵の強硬手段に訴えたのである。熱海砦を攻めたのだ。家康さえいなくなれば、豊臣家は再興できる。

軍団は壊滅こそしたものの、最後に笑うのは豊臣家なのだ。そもそも、砦を包囲した時点で、逃げ道など一つも残されていない。御殿の裏から逃げたとしても、その先は崖である。

「家康……首を洗って待っていなさい!」

こうして、彼女は断崖絶壁へと辿り着いた。

切り立った岩壁。見下ろすと、そこは真っ暗な海。飛び込めば岩礁への衝突は免れぬ。命が助かる保証など無いに等しい。

「……え、家康は? あの古狸は! どこへ行った!?」

信じられない。

家康は、忽然こつぜんと消え去ってしまった。ここまでは一本道。隠れる場所も無ければ、道中でも出くわしていない。道を外れて茂みに逃げ込もうものなら、草をかき分ける音で気付くだろう。

では、生の全てを諦め、崖から身を投げたのか――違う、そんな奴ではない!

他ならぬ私自身がよく知っている。無様に死を選ぶくらいならば、命懸けで追っ手に立ち向かう。それが家康という男。

「わからない。謎が解けない。家康は、どこへ……」

激昂げっこうから一転。ねねはガクリと膝を落とし、 こうべを垂れて呟いた。

「う、嘘よ。嘘だと言って。せっかく、奴をここまで追い詰めたのに。この計画を秘密裏に実行するのも、どれだけ苦労したことか……。わ、私の頑張りは……全部全部、無駄だったというの……!?」

彼女はしばらく、崖の上で絶望に打ちひしがれるのだった。

こうして熱海砦の戦いは幕を閉じた。

果たして、家康はどこへ消えたのか。その謎の答えは、四百年の時空を超えて――

現代の秘宝館にあり。

続きは熱海秘宝館にて。